第70回 天草四郎・神の子として挑んだ島原の乱
江戸時代、島原の乱の総大将を務めた天草四郎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1622年、現在の熊本県天草諸島で生まれたと言われる四郎はかつて小西行長に仕えていたキリシタンの父に育てられ、10代前半で長崎に出て見聞を広めた。一方、故郷の人々は重税やキリスト教の弾圧、飢饉などに苦しみ、生活苦に陥っていた。そんな中、四郎の父が地元の民らと蜂起することを計画、四郎はその総大将として立つことになる。
四郎を救世主、神の子として祀り上げ、蜂起した民は約3万もの人々を一揆に動員し、島原城や富岡城に攻撃を仕掛けた。序盤は戦いを優勢に進めていたが、幕府軍が始動すると、原城を改修し、立て籠もる。しかし、籠城戦が長引くと兵糧が尽き、遂に一揆勢は全滅してしまう。多くの犠牲者を出す反乱を避けることはできなかったのか?そして、四郎はなぜ、神の子として振る舞い、一揆を率いなければならなかったのか?
島原の乱の後、幕府は国内でキリスト教の布教活動をする可能性があるとしてポルトガル船の入国を禁じ、交易の相手国をオランダと清に限定する。いわゆる、鎖国の始まりである。厳しい弾圧を受けながらも、信仰を棄てることができない熱心な信徒たちは潜伏キリシタンとなり、子々孫々、200年以上にわたり、秘密裏に神の教えを守り続けた。さらに、四郎らが起こした一揆はある種、世直しにも一役買っていた!