第69回 高山右近・日本を追われたキリシタン大名
戦乱の世を信仰と共に生きたキリシタン大名・高山右近の敗北から現代に通じる教訓を探る。1552年頃、摂津国に生まれた右近は12歳頃、父がキリスト教に入信したのを機に家族や家臣と共に洗礼を受ける。22歳頃、家督を譲られ、高槻城主になると、自らが整備した城下町に教会を建て、キリスト教の布教に尽力。その後、織田信長に仕え、安土城下にセミナリヨと呼ばれる神学校を造り、キリスト教のさらなる発展を目指した。
信長が横死すると、右近は羽柴秀吉に仕え、天下統一事業を支えるが、1587年、秀吉がバテレン追放令を発すると、右近は信仰を守り抜くことを表明し、改易されてしまう。その後、前田利家に招かれ、加賀国に赴いた右近は前田家の庇護のもと、布教活動に尽力するが、やがて、幕府がキリスト教への警戒感を強め、禁教令を発すると、右近は国外追放を言い渡されてしまう。右近はなぜ、日本を去らねばならなかったのか?
右近は国を後にする際、南北朝時代の武将が詠んだ歌に自らの想いを重ねた。「生きて帰ることはない。死者の仲間入りをする自分の名を書き残しておく」と。後世に名をとどめたかった右近の想いは天に召されて400年後、確かなものとなった。カトリック教会が崇敬する最高位の称号である「聖人」に次ぐ「福者」に列せられたのだ。右近はなぜ、武士としての身分をかなぐり捨て、信仰に殉ずることができたのか?