第66回 丹羽長秀・忠誠を尽くした織田家との対峙
織田四天王の一人に数えられ、織田信長の天下統一事業を支えた丹羽長秀の敗北から現代に通じる教訓を探る。1535年、尾張国に生まれた長秀は16歳の時に1歳上の信長に仕えたとされ、信長から「友であり、兄弟である」と言われるほどの信頼を得たという。越前の朝倉氏を滅亡させ、若狭一国を拝領した長秀は、織田家臣の中で初めての国持大名となる。さらに、築城技術を買われ、安土城の建設指揮も務めた。
長秀は柴田勝家と並ぶ織田家の重臣となったが、本能寺の変を境にその立場が危うくなる。主君の敵討ちに成功した格下の羽柴秀吉が清洲会議の後、織田家の主導権を握ると、その後、織田家の当主を継いだ信長の次男・織田信雄と小牧・長久手の戦いで向き合うことに。この時、長秀は秀吉に従い、長年、忠誠を尽くした織田家と対峙せざるを得なかった。長秀はなぜ、秀吉の配下となってしまったのか?
長秀亡き後、嫡男・長重が123万石もの所領を引き継ぐが、秀吉により石高をわずか4万石に減らされてしまう。さらに長重は関ヶ原の戦いで西軍に与し、改易されてしまうが、父・長秀譲りの築城技術が評価され、白河藩10万石の大名として復活を遂げる。長秀の孫・光重の代になると、二本松藩に転封となり、以後、幕末まで丹羽家は二本松藩主として君臨する。もし、長秀が長生きしていたら、どんな道を歩んだのか?