第65回 滝川一益・清洲会議に出られなかった織田四天王
織田四天王に数えられた織田家の重臣・滝川一益の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1525年、近江国の土豪の家に生まれたと伝えられる一益は、尾張統一を目指す織田信長に仕えると、徳川家康との同盟交渉をまとめ、家臣団の中で頭角を現します。さらに、長島一向一揆を鎮圧し、北伊勢の攻略に成功、長篠・設楽原の戦いでは鉄砲隊の総指揮を執るなどの働きを見せ、織田家中での地位を高めていきます。
1582年、甲州攻めの指揮を執り、武田勝頼を討ち取った一益は、関東全域の経営を任されるまでになりました。ところが、本能寺の変で主君・信長が横死すると、関東の諸勢力が動き出し、一益は北条氏との戦いに敗れます。その後、急いで伊勢に急いで戻ろうとしたものの、織田家の重臣たちによる清洲会議への参加が叶わず、宿老の座を失ってしまいました。織田家屈指の実力者だった一益は、なぜ失脚してしまったのか?
1583年、賤ヶ岳の戦いが勃発すると、一益は柴田勝家に与し、羽柴秀吉を相手に善戦するも敗れます。一益は所領を全て没収され、蟄居を強いられてしまいました。その後、秀吉が信長の次男・織田信雄と対立し、小牧・長久手の戦いが始まると、秀吉に呼び戻され、羽柴軍として参戦します。戦場となる北伊勢の地に詳しい一益の力が求められたのです。一益は再起をかけて奮戦します。果たして、その運命は?