第64回 松平容保・会津戦争を招いた藩主の決断
幕末、京都守護職として尊攘派の志士たちと戦った松平容保の敗北から現代に通じる教訓を探る。1835年、尾張徳川家の分家である高須藩主・松平義建の六男として生まれた容保は12歳の時に叔父の会津藩主・松平容敬の養子となり、会津の家風に基づく教えを叩き込まれる。18歳で会津藩主となった容保は28歳にして、京都守護職に就任。八月十八日の政変や禁門の変では主導的役割を果たし、都から長州勢を一掃する。
十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った後、王政復古の大号令が発せられ、鳥羽・伏見の戦いに突入。旧幕府軍が劣勢に立たされると、慶喜は大坂を脱出し、江戸へ逃れる。この時、容保も慶喜に随行した。朝敵と見なされた容保は江戸を追われ、戊辰戦争最大の激戦となる会津戦争に臨む。容保は新政府軍を相手におよそ一カ月間、籠城戦を展開するも、白旗を上げざるを得なかった。容保は何故、新政府軍との戦いに屈したのか?
戦後、容保は身柄を江戸に移され、蟄居生活を強いられた後、日光東照宮の宮司に任じられた。さらに、会津戦争終結から20年目に磐梯山が噴火、500人もの死者を出す大災害が発生すると、容保は多額の義援金を密かに会津に寄付していた。人知れず、会津の民に寄り添い、鎮魂の祈りを捧げ続けた容保はその5年後、59歳で波瀾の生涯に幕を降ろした。時代に翻弄されながらも、逞しく生きた松平容保の魅力とは?