第63回  徳川慶喜・戦線離脱した最後の将軍

徳川慶喜 江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1837年、徳川御三家の水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれた慶喜は尊王思想の水戸学を徹底的に叩き込まれた後、 一橋家の養子となり、家督を継承。桜田門外の変で幕府の大老・井伊直弼が暗殺されると、将軍後見職として幕府の立て直しに奔走する。やがて、京都で尊王攘夷運動が活発化すると、長州藩を中心とする過激な志士たちの一掃を図る。

十四代将軍・徳川家茂が亡くなり、十五代将軍に就任した慶喜は1867年に大政奉還を実施。しかし、その後、王政復古の大号令が発せられ、徳川家を排除した新政府が樹立してしまう。旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と争うが、すぐに劣勢に立たされる。すると、総大将の慶喜はあろうことか兵たちを見捨て、大坂から江戸へ脱出してしまった。慶喜は幕府の存亡をかけた戦いで、なぜ戦うことなく逃亡したのか?

江戸に戻った慶喜は勝海舟らにその後の対応を任せ、江戸無血開城後、静岡で謹慎生活を送ることに。そして、写真や絵画、刺繍、自転車、釣りなど、様々な趣味に没頭する。謹慎が解かれた後も、そのまま静岡に住み続け、公職に復帰することは生涯なかった。幕末、国政の最高責任者となった慶喜はなぜ政界から完全に身を引いたのか?そして、どんな思いで明治の新時代を過ごしたのか?