第62回 吉田松陰・安政の大獄に散った苛烈な思想家
幕末、松下村塾を開いた思想家で教育者の吉田松陰の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた松陰は25歳の時、日米和親条約締結のために来航したペリーの黒船での密航を企てる。しかし、計画は失敗し、長州に強制送還され、投獄されてしまう。出獄後は欧米の脅威に対抗できる優れた人材を育成すべく、身分・階級を問わず、誰もが学べる松下村塾を開き、多くの門下生を受け入れる。
1858年、大老・井伊直弼らが日米修好通商条約を締結すると、松陰は幕府を公然と批判し、老中の暗殺及び革命を計画。すると、長州藩は松下村塾を閉鎖し、松陰を投獄する。しかし、それで事は収まらず、幕府は松陰を江戸に呼び出し、徹底的に取り調べを行うことに。そこで松陰はなんと自らテロ計画を告白、斬首刑に処せられてしまう。松陰はなぜ、死罪を覚悟で自身の考えを打ち明けたのか?
山口県萩市にある松陰神社には、松下村塾の一部が大切に保存されている。松陰の門下生には、初代内閣総理大臣となる伊藤博文や二度、総理大臣を務めた山縣有朋など、明治の政治を主導する者たちがいた。松陰の教えを胸に刻んだ志士たちが倒幕を成し遂げ、明治の新時代を導いたのだ。もし、松陰が幕末、黒船に乗り、アメリカに渡っていたら、その後、どんな人生を歩んだのか?