第61回  太田道灌・文武両道の名将の最期

太田道灌 文武両道の名将で築城名人や歌人としても名高い太田道灌の敗北から現代に通じる教訓を探る。1432年、相模国の守護代を務める太田道真の嫡男として生まれた道灌は、鎌倉五山と称される禅宗寺院や下野国にあった高等教育機関、足利学校で学問に打ち込み、父同様、扇谷上杉家に仕えた。24歳の時、戦国時代の先駆けとも言われる一大抗争、享徳の乱が勃発。その最中、防衛拠点として築いた城が江戸城である。

そして、戦いが激化する中、新たな騒動が起こる。扇谷上杉家の上位にあり、実質的に関東の統治にあたっていた山内上杉家の内乱、長尾景春の乱である。道灌はこの争乱の鎮圧に力を尽くす中、自らの勢力を拡大し、関東一円に武名を轟かせる。ところが、ある日、自らの主君にあたる扇谷上杉家の当主に呼び出され、その家臣に暗殺されてしまった。道灌は何故、突然、命を奪われてしまったのか?

合戦中も自らの居城である江戸城で歌会を開くなど、歌人としても名を馳せた道灌。中でも有名なのが「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という古歌を題材にした逸話で、勉強熱心な道灌の性格を物語る話として江戸庶民の間に広まった。道灌が江戸時代に人気を集めた理由とは?そして、もし、道灌が暗殺されなかったら、その後、どんな展開になっていたのか?