第60回 片桐且元・豊臣家滅亡を見届けた家老
豊臣家の滅亡を見届けた家老・片桐且元の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1556年、近江国に生まれた且元は浅井長政に仕えた後、羽柴秀吉の家臣となる。且元がその名を轟かせたのは賤ヶ岳の戦い。加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる活躍をし、秀吉の勝利に貢献したのだ。その後、秀吉の天下統一事業を陰で支えた且元は、関ヶ原の戦いの後、豊臣家の家老を任される。
1614年、徳川家康が方広寺の梵鐘に刻まれた文字に激怒し、豊臣家と徳川家の間に亀裂が走る。すると、且元は弁明のため、駿府を訪れる。その後、大坂城に戻った且元は、主君・豊臣秀頼に豊臣家を守るための三つの条件を提示した。ところが、その条件は全て拒否され、且元は城を追われてしまう。そして、大坂の陣が起こり、豊臣家は滅亡の道を歩んでしまう。且元はなぜ豊臣家を救うことができなかったのか?
大坂城からの退去を余儀なくされた且元。すると、家康は、徳川家との取次役を追放したのは宣戦布告に等しいと判断し、諸大名に豊臣攻めの命を下す。豊臣家を追われた且元は不本意ではあるが、徳川軍の一員として大坂攻めに加わるしかなかった。豊臣家の終焉を見届けた且元はその20日後、病によって、この世を去った。もし、且元が提示した条件を秀頼と淀殿が受け入れていたら、どうなっていたのか?