第59回 細川ガラシャ・キリスト教に殉じた謀叛人の娘
戦国大名の妻、そして、敬虔なキリシタンとして生き抜いた細川ガラシャの敗北から現代に通じる教訓を探る。1563年、明智光秀の娘として生まれたガラシャは16歳の時に父・光秀の主君である織田信長の勧めにより、織田家臣である細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚。すぐに子宝に恵まれるが、4年後、父・光秀が本能寺の変を起こし、運命が一変する。謀叛人の娘となったガラシャは鄙びた山里に隠棲させられてしまう。
その後、大坂の細川屋敷で暮らし始めるが、外出を禁じられ、鬱々とした日々を過ごすことに。そんな中、キリスト教と出会い、洗礼を受ける。夫の主君・豊臣秀吉が亡くなると、忠興は徳川家康に与し、会津攻めに向かった。その最中、石田三成らが挙兵し、ガラシャが住む屋敷が包囲されてしまう。その時、ガラシャは人質になるのを頑なに拒み、命を絶った。ガラシャはなぜ、生き延びる選択をしなかったのか?
ガラシャの信仰と非業の死はイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられた。17世紀末にはガラシャをヒロインとするオペラがウィーンの劇場で上演され、好評を博したという。ガラシャが新婚時代を過ごした京都府長岡京市では毎年11月、ガラシャの輿入れを再現した祭りが開かれ、地元の名物となっている。もし、ガラシャが自害せず、生き延びていたら、どんな人生を歩んだのか?