第58回  大谷吉継・関ヶ原に散った智将の野望と真実

清少納言 病を患いながらも、戦国乱世を生き抜いた大谷吉継の敗北から現代に通じる教訓を探る。1565年、近江国に生まれたと伝えられる吉継は若くして羽柴秀吉の小姓となり、後に盟友となる石田三成と出会う。秀吉が主君・織田信長の命に従い、中国攻めを進めると、吉継は馬廻衆として従軍。信長亡き後、三成と共に秀吉の天下統一事業に貢献した吉継は1589年、越前国の敦賀城主として君臨する。

さらに秀吉の最初の朝鮮出兵、文禄の役に参加するが、原因不明の病が悪化し、戦線離脱を余儀なくされる。そんな吉継が自らの人生をかけて挑んだ最後の合戦が、天下分け目の関ヶ原の戦い。吉継は三成と共に挙兵し、徳川家康率いる東軍と熾烈な争いを展開するが、最終決戦の舞台となった関ヶ原で窮地に追い込まれ、自ら命を絶つことに。吉継はなぜ、戦場で自刃せざるを得なかったのか?

吉継は敦賀城主だった時代に、福井県敦賀市にある永賞寺を再興し、自らの菩提寺と定めた。さらに地元の発展にも力を尽くす。古代から栄えた港町を吉継の時代に整備したことで、敦賀は江戸時代、さらなる発展を遂げていった。毎年9月に行われる祭りでは、つるがの山車に飾られた吉継の勇ましい姿に多くの視線が寄せられている。もし、関ヶ原の戦いがなかったら、吉継はどんな人生を歩んだのか?