第56回  藤原道長と頼通 摂関政治の盛衰

藤原道長と頼通 飛鳥時代から400年以上にわたり、日本の政治の中心にいた藤原一族の敗北から現代に通じる教訓を探る。藤原氏は645年に蘇我氏を滅ぼした大化の改新の功労者、中臣鎌足が天智天皇に藤原姓を賜ったことに由来する。平安時代、藤原氏は一族が摂政、関白職を世襲し、政治の実権を独占し続ける政治体制、摂関政治を確立。その最盛期を導いた道長は3人の娘を次々と天皇に入内させ、藤原氏の権力を絶対的なものにした。

道長の嫡男・頼通は父にならい、摂関政治を継承し、更なる発展を目指す。結果、50年もの長きにわたり、摂政、関白として君臨し、政治を主導し続けた。ところが、この頼通の時代を最後に摂関政治は衰退し、天皇が自ら政治を主導する親政の時代が復活する。この世に並び立つものがないほどの栄華を極めた藤原氏。その全盛期はなぜ、あっけなく終焉を迎えてしまったのか?

白河天皇の時代に関白となった師実は天皇との協調路線をとったこともあり、以後、摂関家は道長・頼通の直系に継承される。一族最大の危機が訪れたのは頼通の玄孫の時代。忠通と頼長の兄弟が摂関の地位をめぐって対立し、やがて、保元の乱が勃発。さらに平治の乱を経て、武家政権が誕生すると、摂関家は5つの家に分かれ、幕末まで公家社会の中での影響力を保つ。藤原氏がこの国にもたらしたものとは?