第55回  平将門・関東の独立を図った過激な反乱

平将門 菅原道真、崇徳天皇と共に日本三大怨霊として恐れられ、また、祭神としても崇められる平将門の敗北から現代に通じる教訓を探る。平安時代中期、桓武平氏の一族として関東に生まれた将門は10代半ばで都に上り、天皇を警護する滝口武者となり、平安貴族の実力者・藤原忠平に仕える。しかし、父の死を受け、やむなく帰郷。その後、伯父をはじめとする一族の争いを制した将門は、関東一円にその武名を轟かせる。

さらに将門は関東の諸豪族の争いに身を投じ、各地の国司と戦うことに。これが朝廷への反乱と見なされる。やがて、関東の大半を制圧した将門は自らを新しい天皇、新皇と称し、関東に独立国家を打ち立てようとした。朝廷はこれに激怒し、将門追討の命を出す。将門はわずかな手勢を率い、一時は戦いを優位に進めるが、敢え無い最期を遂げてしまう。将門はなぜ、前代未聞の反乱を起こし、討死せざるを得なかったのか?

平将門の乱から200年以上が経った後、武家政権を樹立したのは、将門と戦い、勝利した者たちの子孫だった。朝廷に反旗を翻した将門は、その後、怨霊となり、人々に恐れられたと伝わっている。しかし、一方で信仰の対象にもなった。関東の地に幕府を開いた源頼朝、徳川家康らの崇敬を受けた将門は、神田明神の祭神として祀られ、今も多くの人々に崇められている。もし、将門が討死しなかったら、歴史はどう動いたのか?