第53回 前田慶次・出奔を選んだ天下御免の傾奇者
天下御免の傾奇者・前田慶次の敗北から明日を生きるための教訓を探る。織田家の武将・滝川一益の一族として尾張国で生まれたとされる慶次は、上杉景勝の家臣・直江兼続と意気投合し、自らも景勝に仕えると、1600年、「北の関ケ原」と呼ばれる長谷堂城の戦いに参加。兼続と共に苛烈な撤退戦で上杉の大軍を会津まで引き返させるなど、武名を挙げるが、関ヶ原本戦での西軍の敗北により、不遇の晩年を過ごすことになる。
そもそも慶次は、尾張前田家の家督を継げず、流浪の日々を過ごした後、叔父・前田利家に仕え、阿尾城の城代を務めるまでになっていた。ところが、1590年頃、突如、前田家を出奔してしまう。そして、その後の放浪生活の中で兼続と出会い、上杉家臣として生きることになるが、結果、負け組の人生を歩むことに。慶次は人生の選択を誤ったとも言える。なぜ、慶次は前田家を出奔すると決断したのか?
山形県米沢市にある堂森善光寺の境内に慶次の供養塔が建っている。その碑文によると、慶次は1612年にこの地で没したと伝えられている。寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬだけ。乱世を自由奔放に生きた慶次は、最晩年、無心の境地に達していたと言われている。もし、慶次が出奔することなく、前田家の家督を継ぎ、豊臣秀吉の家臣になっていたら、どんな人生を歩んでいたのか?