第49回  シリーズ秀吉③ 九州攻めと島津義久

九州攻めと島津義久 3週連続で送るシリーズ秀吉に敗れた武将たち。第3回は、秀吉の九州攻めに屈した島津義久の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1533年、薩摩国に生まれた義久は24歳で家督を継ぐと、弟・義弘と共に先祖代々の悲願である薩摩・大隅・日向の三州統一を達成。九州全土の平定を目指し、動き出す。そして、北九州の大大名・大友宗麟に勝利し、目標達成まであと一歩と迫る。ところが、そこに豊臣秀吉が立ちはだかる。

秀吉は対立を続ける島津氏と大友氏に停戦を命じるが、義久は耳を貸さず、戦を続ける。すると、秀吉が大軍で九州への侵攻を開始。迎え撃つ義久は当初、善戦したものの、次々と押し寄せる敵になす術を失う。観念した義久は剃髪し、秀吉に降伏、臣従を申し入れた。九州の覇者・義久はなぜ、天下統一を目指し、邁進する秀吉に牙を剥いたのか?そして、善戦むなしく降伏せざるを得なかった理由とは?

秀吉に臣従した後、義久は敗戦をきっかけに台頭した反対勢力を抑えることに尽力し、豊臣政権を支えていく。関ヶ原の戦いでは西軍に与し、弟・義弘が武勇を示し、名を挙げる。そして、戦後、徳川家康を相手に粘り強く交渉をした結果、西軍大名として唯一、所領を安堵され、島津家は幕末まで栄え続ける。もし、秀吉の九州攻めが一年遅れていたら、その後、歴史はどんな展開を見せたのか?