第48回  シリーズ秀吉② 四国攻めと長宗我部元親

高松城水攻めと毛利輝元 3週連続で送るシリーズ秀吉に敗れた武将たち。第2回は、秀吉の四国攻めに屈した長宗我部元親の敗北から現代に通じる教訓を探る。秀吉より2歳年下の元親は長篠・設楽原の戦いが行われた1575年に土佐を統一。次なる目標を四国統一に定め、阿波、讃岐、伊予への侵攻を開始するが、織田信長に睨まれる。信長が元親を討つべく、四国に大軍を送ろうとしたその矢先、本能寺の変が勃発。元親は九死に一生を得る。

秀吉が賤ヶ岳の戦いを制し、信長の後継者となると、やがて、小牧・長久手の戦いが勃発。元親は織田信雄、徳川家康と同盟を結び、秀吉に対抗するが、突如、二人が秀吉と和睦し、元親は四面楚歌となる。それでも、元親は当初の野望を果たすべく邁進し、四国制覇をほぼ達成するが、その直後、秀吉が四国に大軍を送り、元親は屈服せざるを得なかった。元親はなぜ、秀吉との戦いに敗れ、臣従する道を選んだのか?

土佐一国の大名に逆戻りした元親は秀吉の天下統一事業を支える一方、検地を行い、分国法を定めるなど、領国経営にも尽力。土佐特有の豪快さと律義さを併せ持っていた元親には、秀吉に生きた鯨を献上するという仰天エピソードも!秀吉が亡くなった翌年、後を追うようにその生涯を終えた元親。関ヶ原の戦いが勃発したのはさらに、その翌年のことだった。もし、元親が小牧・長久手の戦いに援軍を送っていたら、どうなっていたのか?