第44回  シリーズ家康① 家康と三河一向一揆

信長と武田信玄 3週連続で天下人・徳川家康の敗北に注目する。第1回となる今回は、家康三大危機の一つ、三河一向一揆における若き日の家康の敗北から現代に通じる教訓を探る。1560年、桶狭間の戦いで主君・今川義元が討死すると、家康は今川家から独立し、三河の統一を目指す。これに義元の嫡男・今川氏真が激怒し、三河に侵攻。家康はその対応に追われ、一進一退の攻防が続く中、次第に兵が疲弊していく。

そんな中、家康の地元、岡崎を中心とする一向宗の信徒たちが大規模な暴動を起こす。その中には家康の家臣も多く含まれ、家臣団は分裂してしまう。およそ半年間にわたる戦いに苦しみ、窮地に追い込まれた家康は、信徒らが要求する条件を不服ながらも受け入れ、和睦する。家康はなぜ、一向宗の信徒たちと対立し、不利な条件での和睦を決断したのか?若き家康が犯した失敗とは?

一向宗と和睦し、今川勢を駆逐した家康はその後、周囲を騒然とさせる行動に出る。一向宗を禁教とし、僧侶たちを三河から追放、寺院を次々と破壊したのだ。さらに家康は一揆に加担した大半の家臣を追放処分とする厳しい措置をとった。自らに忠誠を誓い、共に行動する者だけを家臣とすることで、一枚岩の三河武士団が形成されていくことになる。もし、家康が一向宗に敗れていたら、その後、どんな展開になっていたのか?